展覧会に見方の補助線を入れ、アートを考え解読する言葉を身につけよう|みなみしまの芸術時評#0レポート
アート作品の多様な見方に輪郭を与え、解釈の道筋を示してくれる言葉。
観たことを言葉にできると、作品の持つ意味に近づくことができます。
そのための言葉を手に入れる方法の1つが、美術批評やレビューに触れてみること。
私自身、特に美術批評には慣れない言葉も多く難しさを感じていますが、言葉を何度も浴び続けてみると、作品を観る切り口が増えていく楽しさが生まれます。
その中でも初心者にも開かれた受け取りやすい言葉を浴びれるのが、社会と世界をつなぐアートの交通路をつくる「みなみしまの芸術時評」です。
今回は2024年4月27日に行われたサバービア・ラボ主催「みなみしまの芸術時評 #0〜社会と世界の交通路をつくる」をレポートします。
今回まとめた芸術時評#0では、
- なぜいま芸術時評か?
- 話題の展覧会を語る:国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展
- 新年度に読みたい美術本10選
の3つのトピックが紹介されました。
聞き慣れない言葉はできる限り分かりやすくなるよう意味を添えています。
芸術時評を通じて、アート作品を観るための言葉を採取していきましょう。
次回の芸術時評はこちら。
芸術時評とは?
芸術時評とは社会と世界をつなぐアートの交通路をつくる場であり、判断留保し時間の幅を広くとることで、二項対立ではない「考える時間」をつくる場です。
具体的には、3つの内容がわかる場となっています。
- いま見るべき展覧会、美術書がわかる
- 美術批評と展覧会レビュー、ほかメディア記事も取り上げたアートの動きの解読
- アートを知識として知るだけではなく、日常のなかで思考するための基礎とする
なぜ、いま芸術時評で考える時間をつくる必要があるのかは、登壇者のみなみしまさんの個人・学芸員2つの側面での活動とも関連してきます。
みなみしまさんの活動について
これまでのみなみしまさんの主な活動をまとめると、以下の通りです。
- みなみしまさんの個人・学芸員の活動内容(+マークをクリック)
みなみしま(南島興:みなみしま こう)さんは1994年生まれ、横浜美術館学芸員です。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程を修了(西洋美術史)されています。
- 個人としての活動
- 「これぽーと」主催(2020〜)
→博物館法に基づき美術館・博物館の基礎となるコレクションを発信するプロジェクト。有志による書き手を通じたより良い観客・読者の創出という一面も。 - アート・ジャーナリズムの夜(2021〜2023)
→ゲストとの対談など、アートに関する情報発信の場。 - 「坂口恭平の心学校」の出版(2023)
→坂口恭平さんの文化的な活動に10年近く関心を寄せてきたみなみしまさんのXスペース上で催された講義録を元にできた書籍。「徒党」を組まない集団性の在り方のロールモデルの探求も。 - 美術史の門前(2023〜2024)
→「西洋美術の歴史 20世紀ー越境する現代美術」を読みながら、美術史を語るための方法論を考える基礎編の講座。入門ではなくアンラーニングの必要性。
- 「これぽーと」主催(2020〜)
- 学芸員としての活動
- 第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」(2023)
→ヨアル・ナンゴさんなど、何名かの作家を担当。 - 「浦川大志さん|智能手机ヨリ横浜仮囲之図」(2022)
→横浜美術館改修工事中の仮囲いを用いた展示プロジェクト。 - 横浜美術館コレクションの解説編集担当(2021〜)
→コレクション解説の編集プロジェクトを担当。750本を編集。検索サイトの「学芸員の解説が読める作品」タブで閲覧可能。
- 第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」(2023)
- 個人としての活動
こうした個人・学芸員2つの側面で活動していく中で、
- 徒党を組まない集団性をどう作るか
- 個人の判断が問われる中で、よく吟味し、良い選択をするための仲間の必要性
- 美術の基礎をどう語るか
- アンラーニングの必要性から、美術史を語る方法に注目
がスタンスとして明確になっていき、現在の活動に至っています。
また、歴史のある美術専門誌「美術手帖」の季刊化(年12冊→年4冊)とウェブメディアが台頭し、速報・即応競争による情報消費の時代に突入。
遅延して届く紙メディアならではの「考える時間」が確保できる良さが、ウェブ化によって失われたことで、数週間後に遅れて考える場がない状況になっています。
こうした背景もあり、考える時間を確保する必要性から、判断留保し時間の幅を広くとるための「芸術時評」がスタートしました。
話題の展覧会を語る:国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展
ウェブ化による速報・即応の時代から距離を置き、考えるために今回選ばれた展覧会が、国立西洋美術館の企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?―国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」です。
内覧会でイスラエルのパレスチナ侵攻に対するアーティストや市民による抗議活動でも話題となりました。
主に20世紀前半までの「西洋美術」だけを収蔵・保存・展示する国立西洋美術館にとって、現代美術をメインに扱う展示は今回が初。
芸術時評では
- 現代美術の展覧会としてどうだったか
- そもそも美術館とはどいう場所か
の大きく2つの観点から、同時代シーンへの時評が展開されました。
展覧会の見方に補助線を加え、輪郭を与える言葉たちを見ていきましょう。
チラシから見えてくる「テキストが必要な展覧会」というメッセージ
今回は展示作品を観ていく前に、展覧会チラシに注目するところから始まります。
展覧会チラシの表紙を見てみると、展示作品の画像が1枚もない異様さが目を引きます。
展覧会のチラシといえば、展示の顔となる作品画像をメインにするのが通例。
美術館を巡る昨今の問題意識としても「言葉をわかりやすく、視覚的な情報をメインに打ち出す」という方向性があるそうです。
ところが、端から端までテキストで埋め尽くされたチラシを見ると、真逆の戦略をとっていることが伺えます。
そうしたことから「テキストが必要な展覧会」と読み取ることができます。
そこで、芸術時評では本展のテキストに注目し、話が展開していきました。
読める言葉と読めない言葉の違い
本展の作品には「読める言葉」と「読めない言葉」が登場します。
今回は3人の参加作家の作品を例に、その言葉を選択した理由の読み解きがなされました。
読めない言葉 ー 飯山由貴、田中功起
ここでいう「読めない言葉」というのは、目線の高さになかったり、文字が小さかったりと、読ませようとしていない文章がある作品を指します。
そうした言葉を展示をしていたのが、飯山由貴さんと田中功起さんです。
まずは、飯山由貴さんの作品から観ていきます。
飯山由貴さん他数名で共同制作された、壁一面に手書きの文章が書かれた作品。
文章は日本の帝国主義の話や、西洋美術館の松方コレクションの略歴などに対する批判的な内容が書かれています。
展示を見て気づくのが、上から下まで壁一面に文章が手書きで書かれている壁面があること。
この展示について、芸術時評の中で語られた内容を要約すると以下になります。
- 見づらさは「読まなくてもいいですよ」というメッセージに受け取れる。
(読んでほしいのであればミスディレクションが起きている) - 国立西洋美術館の歴史や帝国主義の発想など、どちらかというと負の歴史の語りを私たちの身体でもって書いたという、パフォーマンスの痕跡を展示しているなら理解できそう。
- ただ、現場でそこまで読むのは難しく、アクセシビリティ(接続のしやすさ)は低いと言わざるおえない。
- 文章を書くというパフォーマンスの痕跡を想像させる補助線があり、後から辿れるようになっていたら、読めないことにも意味が生まれるように感じる。
文章が読みづらいというのは一見ネガティブな要素に感じますが、文章を印刷ではなく手書きにしたところと、目線に収まり切らない範囲に書くことの意味を考えることで、「パフォーマンスの痕跡を展示」という解釈に繋げていく切り口は、作品を観る時にも応用できそうです。
次に、田中功起さんの作品を観ていきます。
田中功起さんは美術館を利用しづらい人たち(車椅子の利用者、子連れなど)に対して、どうアプローチするかを提案する作品を展示。
また、文化研究者の山本浩貴さんに依頼した自身の提言への批判を合わせて掲示しています。
その提案が展覧会の中で一部実現しているところもありつつ、芸術時評で語られた内容を要約すると以下になります。
- 小さい文字で膨大に書かれていて読みづらく、テキスト自体は田中さんが本来届けようとしている人たちに向けられていないように思った。その意味で読めない言葉に感じた。
- 言葉だけでも成立するアートという意味では極めてオーソドックスにコンセプチュアル・アートだが、同時にコンセプチュアル・アートのアクセシビリティの低さを提示しているようだった。
- キャプションに「思考」と書かれているのは納得。
- 展覧会という形式を使って美術館の管理・運営を変えようとしている。その提案は多分みんな思っているところだが内発的にできているのはごく一部で、実現されない提案もあり、「展覧会を使わないと動かないのは何故か」という根本的な問いを含めることが多分できたのではと思う。
- 田中さんの提案の中にあった「作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする」で位置を下げた作品を選んだ理由の強さや必然性が大事だと感じた。例えば、アクセシビリティをいかに高めるかをラディカルにやった「“みかた”の多い美術館展(2023)」では、身体を使い制作をする障害を抱えた人たちに来てもらい、似た制作方法の具体派の作品のみを下げていた。そこには、共通の制作をするもの同士で響き合う何かを感じてほしいという目論見が読み取れた。届けたい人、届けたい作品が明確で、そこに理由の強さがあった。
- 車椅子の人に限らず、健常者でもそれぞれ異なる身体を持っている(視力が低いなど)から、アクセシビリティを上げるというのは全然違うそれぞれの人たちを見ていかないと、おそらく本当はできないことではあるように思う。
そもそも今回の展覧会に限らず、提案されたことを常に実行できない理由を深掘りする見方は、提案しただけで終わらせないものにするという意味で重要な観点に感じます。
また、なぜそうしたのかの「理由の強さや必然性」という観点も、展覧会が放つ説得力という意味で、重要な指標になるかもしれません。
読める言葉 ー 弓指寛治
他方の読める言葉は、取捨選択した言葉を使い、すべて読まずとも理解しやすく展示し、読ませるつもりで書いていることが伝わってきます。
そうした言葉を展示をしていたのが、弓指寛治さんです。
およそ1年間、山谷というドヤ街のホームレス、路上生活者に話を聞いたり、その人たちを介護するヘルパーに話を聞いたり、特定の人に生涯の話を聞くという取材と絵と言葉、会話の記録を物語仕立てに並べた展示。
芸術時評で語られた内容を要約すると以下になります。
- 弓指さんの過去活動を見ると、膨大なコミュニケーションのメモから吟味された言葉を書いている。そして、そのテキストの一部を読むだけでも行間が分かるようになっていて、全てを読ませようとはしていない。
- 一行目の書き損じを新たにやり直さず、塗り潰して書き直していることから一筆書きだと想像できる。そこから、間違えても進む弓指さんの身体性やスピードが空間インスタレーションに流れている。
- 重要だと思ったのが、キュレーターである新藤淳さんとの距離感。単に依頼主の距離感ではなく、キュレーターが弓指さんに巻き込まれる形で作家側に寄り、アウトリーチに参加。そこで、新藤さんがお弁当を渡した際、路上生活者の人に「あなたのことを知っている」と言われた場面を描いた作品があった。そこには路上生活者が認識していて新藤さんは認識していない、圧倒的な非対称性が描かれている。弓指さんが新藤さんと立場を超えて協働していくと同時に、新藤さんが路上生活者と出会うための物語となっている。
- 取材対象の個別の人生に出会っていく一方で、キュレーターがこの人に出会うための物語でもあるという見せ方が明確になっていて、いいところまで手が届いている。その物語の作り方のうまさ、シンプルだけど強さみたいなものがあった。
- 今回の展覧会の内覧会で話題となったアクティヴィズムは、美術館・キュレーターに対して行われた。美術館にしろキュレーターにしろ、協働することでより大きなアクションとなるのではとも思う。その意味で、弓指さんの視点は飛距離が遠いように感じる。キュレーターを物語に入れることでより大きいものに届かせるような余白があった。
展示企画者としてのキュレーターが作家寄りに協働することは珍しく、SINRAのインタビューを読むと、新藤さんは「作品ができていく過程で抱いたのは、反省ばかり」という変化をもたらしています。
美術館、より具体的にはキュレーターに対して行われた内覧会の抗議活動の形よりも、本来展覧会を一緒に作り上げていく仲間として協働することの可能性に目を向ける点が印象的でした。
本展を読める言葉と読めない言葉という切り口で見ていくと1つの観る基準が生まれ、アート作品の多様な見方に輪郭を与え、解釈の道筋を示してくれることが分かります。
現代美術の動きから展覧会を読み解く
芸術時評では、国内の現代美術の動きと照らし合わせた、展覧会全体の考察もされていました。
まずは2010年代の現代美術の動きとは何かについて。
2010年代は特に東日本大震災の影響が強く、そこからシグナルとアレゴリーという2つの動きが注目されました。
ここでいうシグナルとは、即応的に問題点を指摘することで、これまで不可視化されてきた日本社会の問題を作家が取り上げて作品にする傾向のこと。
また、アレゴリーとは、時間差を挟んで解読されるような、時差をはらんだ暗号的な作品にする傾向のこと。
本展の企画者・新藤淳さんが公開座談会で語った大きな問題意識に、資本主義リアリズム(2018)で知られるマーク・フィッシャーさんが指摘した「資本主義以外の生き方でオルタナティブ(別の可能性)はありえないのか」という観点があったそうです。
その観点と現代美術の動きを照らし合わせて考えていくと、流れとしてはオルタナティブというものが失効した中での展覧会であったことが伺えます。
- オルタナティブはどちらかというとアレゴリー(即応的な指摘)の方向性で現代美術を担っていく動きはあったものの、オルタナティブな共同体の組織運営が男性主義的、ハラスメントなど古い問題構造を抱えたままだったことが顕在化し、マイナスな形で失効している印象がある。
- それと同時期に脱政治性(脱政治的なコミュニティや活動)も話題にあったものの、オルタナティブと同じく失効した印象があり、その後に今回の展覧会が開催された印象がある。
そうした流れで考えると、問題意識としてオルタナティブに希望を見出していたものの、組織運営などの問題があり失効していく動きである中で、次の一歩というよりは今ある問題を考える展覧会だったと受け取れます。
美術の今後を知るキーワード「技巧化・新たな制度検討と政治性」
最後のまとめに、現代美術の動きがどう進むかという点で「前衛からマニエラ/マニエリスム(技巧化)へ」「脱政治性から新しい制度論へ」という話が挙がりました。
- 「前衛からマニエラ/マニエリスムへ」は、2010年代を経験した2,30代の作家は技術が体系化・民主化され、扱いやすくなっている時代になったこともあり、昔と比べ言葉や制作が上手くなり、あらゆる意味で技巧化してきている。逆にいうと、前衛美術のような新しさの時代ではないともいえる。
- 「脱政治性から新しい制度論へ」は、オルタナティブや在野の人が制度を作ったり考える中で、政治と向き合う必要があるということ。その点は今回の展覧会にも含まれているようでもあった。
例えば、NFTの認知が広がるより前にアイデア自体はあったはずで、それを最初に掴もうとした作家の制作を通じた取り組みに新しさがあるようなものです。
作品や展覧会を読み解く切り口を受け取りやすい形で知れるのも、こうした情報発信の場ならではでした。
新年度に読みたい美術本の紹介
芸術時評の最後に「新年度に読みたい美術本10選」が紹介されました。
意外と難易度の高い、ネット検索での適切なアートブック選定。
本の情報は調べれば出てきそうですが、今回の芸術時評で紹介された本をネット検索で探そうとすると、簡単には出てこないものが多いです。
そこには本屋で購入することがほとんどだというみなみしまさんだからこその、現地で取捨選択することで分かる新しさがあります。
芸術時評#0の中ではアートブック10冊が紹介されましたが、ここでは「新年度向け!美術必読リスト」でも紹介されている本を中心に8冊をご紹介します。
「現代美術とは何か」という人が最初に読む本(作品編)
まずは、現代美術の歴史を手軽に入手できる本2冊です。
「現代美術とは何か」という人が最初に読む本(理論編)
哲学の中で美の本質・原理などを研究する「美学」の観点でまとめられている美術書2冊です。
ハードめだけどおすすめなモダニズムの本
美術館について知るための本
配信中の質疑応答
芸術時評#0の配信中に寄せられた質疑応答には、アートをこれから知っていきたい人にとっても気になる質問がありました。
配信中に寄せられた質問から厳選して掲載します。
- アートに即応性は必要ですか。
即応性を原動力としたアートはある(シグナルを送る役割としてのアクティヴィズムなど)。ビジネスやメディアとは別の観点でアートが果たすものがある。
- 批評的に広い視点で作品を観るために何から始めればいいでしょうか。
- あなたはどう観たのか。何も考えなかったということはないと思うし、何かがそこで通りすぎていったわけであって、その通り過ぎていったものを単に掴み損ねてるとか、繋ぎ損ねてる何かがあるはず。
- 「展覧会とはこういうものだ/鑑賞者はこうあるべきだ/現代美術はこうだよな」という自分が持つ前提・条件と、目の前の展覧会にはズレがあるはず。このズレに敏感になるのが大切で、そのためには自分の中のモデルをはっきりさせ、今回の展覧会とのズレを発見していけると良い。
- 書いてみると違和感が出てくると思うので、これぽーとでぜひ書いてみてください。
- 美術鑑賞初心者が1つの絵を10分も20分もかけて見たことをSNSに投稿しいいねを稼ぐ人に滞りを感じます。それよりも、読書をした方が良いと感じてしまう。
- 10分観ることで承認欲求を満たすことが目的であれば違うと思うが、観ること自体は大事。
- 観ることからしか始まらないが、観ても分からないものもあるので、テキストや人に聞いて補完する必要はある。
- 対話型鑑賞は語って終わることがあるが、それは作品の真なる情報ではないことが多い。作品の本当の意味に近づくための言葉が必要で、読書することでそこに近づける立場がある。他方では、作品の真実に近づくわけではないが、作品の多様な見方が手に入る/言葉の受容ができるという立場もある。その両方が大事で、なぜかというと心なる情報とは何かというのは、定義によるから。
- 例えば、保存修復の点検の観点で作品をみると、作品としてではなくものとして観るため、観ていなかったことに気づく。
- 観るところから始まり、読んで、また観ることによって見逃していたものに気づくの繰り返しだと思う。
まとめ:展覧会を解読する言葉を知り美術を楽しもう
芸術時評を視聴して、いくつか切り口を例に話題の展覧会の解釈の1つを知る機会にできました。
鑑賞者それぞれが持つ「展覧会とはこういうもの」「現代美術とはこういうもの」という基準と比べたときの差異を発見するきっかけになり、その言葉を掬い上げることで鑑賞が変わる擬似体験ができました。
そして、掬い上げた差異に輪郭を与える言葉も同時に知ることができました。
芸術時評#0の配信は3時間近くあり、ここで紹介しきれなかったものも多くあります。
話を聞くことで取り入れられる言葉もあると思うので、次回の配信からチェックしてみるのもおすすめです。
アートを観ること、知ることの両方を大切に、美術館賞を楽しんでみてください。