髙橋こうたインタビュー①「写真家になるまでの道のり」|美術作家の原点〜作品が作品になるまで
芸術は長く人生は短し。
それならば、美術作家と話せる今こそ話を聞いてみるべきではないか。
それも、作品が作品になる前の「美術作家」の原点を探るように話を聞いた時、この人だから生み出せる作品の凄みや世界観を、よりリアルに体感できるのではないでしょうか。
そうした仮説のもと、「美術作家の原点 作品が作品になるまで」と題したインタビュー特集をスタートします。
第一弾は写真家・髙橋こうたさん。
1986年に生まれ、田園風景や雪原が広がる秋田県で育ったサッカー好きな少年が社会人になった後、ある出来事をきっかけに表現活動を志し、写真家になります。
その過程にはどんな物語があったのかを、寄り道まじりでインタビューしました。
第1回では、髙橋こうたさんが人生で経験したことと、写真家の道を選んだことの関係性を探ります。
インタビューした人:髙橋こうた
髙橋こうた(たかはし こうた)
1986年生まれ、秋田県出身の写真家。
秋田大学工学資源学部機械工学科卒業。
社会や人と接する中で抱いた疑問を探り、視覚的に表現する形で2019年に作家活動を開始。主に個人にまつわる歴史背景や物語に焦点を当て、そのリサーチを基に作品を制作している。手製の写真集を主な表現媒体とし、時代の中で埋もれた写真などアーカイブも織り交ぜたビジュアルストーリーを構築する。
2020年に着手した冒険家の動機をテーマにした作品《80°05’》は、2022年アルル国際写真祭 LUMA Rencontres Dummy Book Award でファイナリストに選出。2024年にはベルファストやシンガポールの国際写真祭においても同作品集がノミネートされている。主な展示に、京都国際写真祭「KG+SELECT」ファイナリスト展(京都, 2023年)、「80°05′」出版記念展(72Gallery / 東京, 2024年)など。
X:@kouta_t14 /Instagram:@kouta.t14
「自分の中で物語を想像」していた登下校時間
ーまずは子どもの頃からお話を聞かせてください。幼い頃はどんな子どもでしたか。
人見知りで内気な子どもでした。僕は小学校の頃からサッカーが好きなんですが、小学校、中学校にはサッカー部がなくて、共通の話ができる人がいませんでした。
それに、実家が秋田県の山奥にあって、中学生の頃は片道3kmの坂道を1時間かけて登下校していました。これが結構大変な道で、誰かと一緒に登下校する機会もなく、そういう意味でも同級生と接するタイミングが少なかったです。
ー長距離を毎日!その時間はどんなことをして過ごしてたんですか。
登下校の時間を利用して「自分の中で物語を想像」していました。
明確に覚えているのがサッカー漫画「キャプテン翼」のストーリーをベースに、架空の登場人物やチームを自分の中で作り上げ、感情移入しながらストーリーめいたものをシュミレーションしていました。サッカーに限らず、自分の中でドラマ的、アニメ的な物語を想像していたのは覚えていますね。それが今の制作にも繋がっている気がします。
ービジュアルストーリーで伝える今の制作スタイルの原点が登下校の想像にあるかもしれませんね。自分の中で物語を作るところも、想像だからこそ理想の姿が反映されているようです。
人見知りだからこそ、目立ちたい自分もいたのかもしれないです。それに、小柄で身長が低いことへのコンプレックスもあって、だから自分の頭の中だけでもヒーローでありたかったんでしょうね。自分が主人公というか、そういう憧れはずっとありました。
サッカーの歴史や学校の先生が「未知を知る面白さ」を教えてくれた
ーサッカーが好きだったことや、想像の中でも「キャプテン翼」が登場するなど、髙橋こうたさんにとって「サッカー」がキーワードのひとつに感じます。サッカーのどんなところが好きですか。
サッカーをすること、試合を見ることはもちろんですが、歴史を調べるのも好きでした。
小学生の時にちょうどJリーグが開幕し、日本代表が初めてワールドカップ(98年フランス大会)への出場を決めました。その時期は、日本サッカー史における転換期だったように思います。テレビ番組でサッカーが特集されることも増え、海外情報も含めた歴史の成り立ちにも興味があったのでしょうね。
ーなぜそんなにサッカーの歴史に熱中したんですか。
きっかけはあるテレビ番組の特集で、ワールドカップ史(1930年〜)と日本サッカーの歴史を振り返る内容でした。それをビデオ録画して何度も繰り返し見てましたね。
そこからサッカーの歴史に熱中したのは「未知への好奇心」だと思います。当時はインターネットが普及してなくて、国内の情報を得ることすらままならない時に、海外はさらに未知でした。更にそこに歴史の時間軸も加わり、より好奇心が増したのでしょうね。今思えば僕にグローバルな視点を授けてくれたのはサッカーですし、当時の時代背景も含めて運がよかったと思います。
ー「未知への好奇心」が熱中の鍵だったんですね。
あとは、学校の先生が僕の世界を広げてくれたと思います。
小学6年生の時の担任の先生がスキーの上手な人で、アドバイスされた通りやると本当に面白くなるんです。それがきっかけでアルペンスキー競技にハマりました。
それと、中学1年生の担任の先生が数学を教えていて、授業がすごく面白かった。サッカーの歴史を調べるのが好きと話しましたが、科目としての歴史は実を言うと興味がなくて。得意科目は数学で、そうなったのも担任の先生のおかげでした。
ー学校の先生が教えてくれたスキーや数学の面白さ。未知なものを「面白い」と気づかせてくれる存在が、高校の進路にも影響したのでしょうか。
まさに、数学が得意科目になったことから工業高校へ進学を決めました。高校はサッカー部に所属し、家から通えない距離だったので、実家を離れて下宿(シェアハウス)で生活をしました。
そこで思い出に残っているのが、大学生との共同生活です。下宿には大学生が住んでいて、一緒に過ごしていました。高校に入った頃は大学進学の発想がなかったんですが、大学に入った方が可能性が広がる話を聞いたのと、当時学んでいた専門分野をより深めたいというのもあって、結果的に工学部への大学進学を選びました。それは大学生に囲まれていたからこその選択ですね。
元プロサッカー選手「中田英寿」の影響
幼少期からサッカー好きな髙橋こうたさんのお話を聞いていくと、日本のサッカー選手に欧州挑戦の道筋を作ったパイオニア「中田英寿さん」の存在が大きく影響していることがわかります。
例えば、志望大学の選択理由に、中田英寿さんの影響が現れています。
秋田県内で大学進学を考えると秋田県立大学と国立の秋田大学があるんですが、僕のいた工業高校では当時秋田大学に進学した例が少なかったんです。先生からも秋田県立大学がいいんじゃないかという声もあったんですけど、前例の少ない方に挑戦したいと考えて進路を選択しました。
そこには、当時ヨーロッパへの道を切り開いた元プロサッカー選手「中田英寿さん」の影響があります。今でこそ当たり前のように日本のサッカー選手がヨーロッパに行くようになっていますが、その道を開いたのは中田英寿さんで、当時世界最強といわれたセリエA※に行って、そこで実績も出したパイオニアです。
全然規模は違うんですけど、そういうパイオニアの姿に憧れがあったんだと思います。そうした憧れもあり、2004年に秋田大学工学資源学部に進学しました。
※セリエA:イタリアのプロスポーツ上位(1部)リーグをさす言葉。
ー大学の進路決定にパイオニアへの憧れがあったんですね。他にも中田英寿さんから影響を受けたんでしょうか。
進路以外にも、ファッションやインテリア、旅、ブログも中田英寿さんの影響を受けました。実は大学時代にインテリア雑誌に載ったことがあるんですが、SNSの走りであるmixiに自分の部屋の写真を載せていたら雑誌編集者が見てくださって、声をかけられたりしていました。
あとはサッカーにまつわるブログもやってました。これは1998年のインターネットが普及しきっていなかった時期に中田英寿さんがアスリート自ら情報発信するホームページのパイオニアともいえる「nakata.net (ナカタドットネット)」の影響で始めたところがあります。
ー中田英寿さんはホームページを始めるのも早かったんですね!
早くないですか!?当時はインターネット、ましてやホームページやブログの概念も浸透してない時期から始めていて。だからいろんな意味でパイオニアなんですよね、中田英寿さんは。
そして、自身のホームページで2006年に29歳で引退発表をするんですよ。当時テレビを見ていたら突然テロップで“中田英寿さん 引退”の速報がでてきて、衝撃を受けたのを覚えています。そして、中田英寿さんは突然旅に出るんです。
冒険家「阿部雅龍」との衝撃的な出会い
ー秋田大学では、中田英寿さんからの影響と同じくらい、髙橋こうたさんの作品《80°05’》にもつながる出会いがあったそうですね。
秋田大学で一番衝撃的だった出来事は、僕の作品《80°05’》の主人公でもある冒険家・阿部雅龍との出会いです。
阿部雅龍は2年間休学して冒険家・大場満郎さんへの憧れから冒険学校スタッフをして、アルバイトで資金を溜めた後、初の冒険である南米大陸単独自転車縦断を達成。それから復学するんですね。
それで、2006年に僕が大学3年生の時に彼と同級生になりました。創造工房という「風に向かって走る車」をテーマにしたものづくり実習があって、そこで同じグループになったのが初めての出会いです。
ー髙橋こうたさんは人見知りだと伺いしたが、どんなきっかけで仲良くなっていったんですか。
僕と同じく、阿部雅龍も人見知りだったんですよ。
グループ実習の最初に紹介されるわけですが、阿部雅龍は180cmくらいの長身に金髪で威圧感があり、なかなか目を合わせてくれず、正直第一印象はあまり良くなかったです。
でも、先生から「南米を自転車で旅した人」と紹介があって、その流れで旅の写真を見せてくれたんです。その時の阿部雅龍の語り口調がすごく純粋で楽しそうに話していて、第一印象とのギャップがあって面白い人間だなと思いました。
ただ、彼自身すでに冒険活動をしていたこともあり、大学時代はそれほど深い交流はしていませんでした。彼とは2008年に大学の卒業式で最後に会った後、社会人を経て2011年に再開することになります。
ー阿部雅龍さんとは社会人になった後により交流を深めていったんですね。ご自身の大学卒業後の進路はどう決めたんですか。
就職活動をして、ある製造メーカーに就職しました。実はその1社しか受けてなくて、どうせなら自分が興味ある業界のトップがいいと思って選んだ会社に、ありがたいことに内定をいただけました。
その会社は世界の有名なデザイナーと共同で製品開発もしていて、国際アワードの受賞歴もあり、そうした環境があったことも僕の中では大きかったですね。
ー世界にも目を向けていたんですね。
インターネットがあったとはいえ、僕の中ではまだまだ世界が遠くて、信じられない世界でした。だからこそ世界を見てみたいとも思っていたのかもしれません。
ー社会人になってからはどんな業務をされていたんですか。
製造メーカーに就職して、12年間在籍しました。仕事では製品開発に携わったり、社内の生産効率を改善するためのリサーチやプレゼンをしたりしていました。
ー仕事上でリサーチ内容をもとにストーリー構成しプレゼンで伝える機会があったんですね。その経験が今の作品にあるビジュアルストーリーで伝える説得力を後押ししているようにも思えます。
社会人への疑問、東日本大震災、旅をきっかけに表現活動の道へ
ー製造メーカーで仕事をしていたところから、表現活動の道にはどう繋がっていったのでしょうか。
会社員として働いていくうちに、「社会人」という言葉に違和感を持つようになりました。
みんな社会人という言葉を当たり前のように使うけど、「社会の人とは何か」と思ったんです。僕はあくまで“会社の人”で、社会人は羽ばたいて広いところにいく感覚があったんです。大学の方がもっと多様な人がいたのに、狭いところにきてしまったと思いながら過ごしていました。
ーそうすると、“社会の人”に近づいた出来事があったのでしょうか。
きっかけは東日本大震災で、被災地に近い会社の工場が流されてしまったんです。それで、被災された従業員を自分が勤務していた工場で受け入れることになりました。従業員の中には家が流された人や家族を失った人がいらっしゃって、その人たちと約1年間くらい交流したんです。
大きな社会現象に巻き込まれた人と過ごすうちに、これまで遠い存在に感じていた社会を自分ごととして考えられるようになり、そこで初めて自分が社会と接しているような感覚になったんです。
それで、実際に自分の目で社会を見ておきたいと思い、2012年から休日を利用して日本を巡る旅をスタートします。自分の足で自然環境を巡ったり現地の人の声を聞いたり、あとは日本の伝統芸能を巡ったり、結果的に会社員をしながら約5年旅を続けたんです。
そこで印象的だったのが地方と都市の関係性です。地方で様々な伝統芸能と出会ったのですが、担い手がいないという声を何度か聞きました。僕の生まれ故郷である秋田の伝統芸能なまはげも担い手不足の問題があります。なぜ地方から都市に人は流れるのかと考えるものの、僕自身も上京した身なので複雑な心境でした。
また、実際に自分の足で日本各地を巡ったことで、社会に対していろいろと感じることもあり、漠然と何か表現活動をしたいと思うようになりました。同時に、改めて地元秋田に目を向けたいとも思いました。
ーそこから写真表現に繋がっていくと。
そもそも芸術ってどんな種類があるのかと、まずはリサーチをしました。文芸や美術や音楽など大きなカテゴリーに分かれ、その中に様々な表現媒体が存在します。一通り洗い出して、どれが自分にあっているか一つひとつ見ながら消去法で選んでいき、一番最後に残ったのが「写真」でした。
特に写真を撮るのが好きなわけではなかったのですが、視覚的かつ想像の余白があって、日本をこの目で見てきたからこそ、現実を写し出す写真がしっくりきました。
ー写真表現を選んで最初に取り組んだのが、秋田の祖父の写真だったと思います。会社員をしながらどんな展示をしていったんですか。
まずは何気ない感じで祖父の日常生活を撮影したんですけど、これがタイミング良く2019年に展示する機会をもらえたんです。秋田県出身のオーナーがやっているダイニングバーで写真展示と、鑑賞者がきりたんぽ作りを体験できるイベントをしました。この展示が好評で作品を購入してもらえたり、秋田に足を運んでくれた人が何人か出てきたり、さらに撮影のお仕事をいただくきっかけにもなり、手応えを感じました。僕自身人見知りだけど主人公に憧れはあった中で、自分がやったことで注目されることが単純に嬉しかった。
そのあと色々な偶然が重なって、10ヶ月後にはパリのギャラリーでグループ展への参加が決まりました。短期間で海外展示の機会を得たことに僕自身盛り上がり、周りの人からも「パリで展示できるんだ!すごいね!」と注目してもらえました。でも、ここで大きな挫折を味わって、写真家としてのターニングポイントになったんです。
なぜ写真家になったのか
ーフランスの展示で、どんな挫折を味わったんですか。
正直なところ、日本の展示で好評だったので、パリでも褒められると思っていました。
ところが、現地では批評的な意見もあって、「なぜあなたである必要があるの?」と、作品のコンセプトは? この作品をつくるのがなぜあなたである必要が?ということを何度か言われました。日本で展示した時は、写真の色合いや構図など表面的な感想がほとんどだったので、まったく予想打にしない質問でした。
また同時期に開催していた世界最大の写真フェア「パリ・フォト」を現地で見てレベルの違いを実感し、何だか自分がちっぽけな存在に感じました。グループ展での批評的な意見も含め、自分がいかに勘違いして調子に乗っていたか、井の中の蛙だったかを痛感しました。本当に絶望的な気分でした。
ーそこから写真家として活動してく覚悟を持ったんですか。
写真家になる覚悟というよりも、まずは一から勉強しないとダメだと思い、パリのグループ展から数ヶ月後に衝動的な勢いで会社を辞めました。それが2020年3月だったのですが、偶然にもコロナ禍突入と重なってしまったのです。
そこからは美術の歴史もそうですし、写真の歴史や成り立ち、あと世界にどういうフォトイベントがあって、どういう美術作家がいるのか、そういうことをきちんと知った上で自分にしかできないことはなんだろう、みたいなところを考えていきました。
ー美術や写真に関する勉強をしていく中で、作品のコンセプトを固めていったんですね。
自分にしかできないことを考えた上で、明確に僕が好きだといえることは「リサーチ」と「整理整頓」でした。リサーチで得た情報をどう分類して繋げていくか、というところですね。
そうした自分だからできることを考えながら制作したのが、冒険家・阿部雅龍を主人公に「なぜ冒険するのか?」という素朴な疑問を解明していくビジュアルストーリー作品《80°05’》です。
髙橋こうたさんのお話を伺った後にプロフィールを読み返してみると、人との出会いや経験の積み重ねがあったから、リサーチを基にしたビジュアルストーリー作品《80°05’》が生み出されていることが分かります。
《80°05’》については、写真集刊行に合わせて開催された展覧会レポートでも紹介しています。
このインタビューを読んだ上で作品を鑑賞してみたら、「髙橋こうたさんだから制作できた作品なんだ」と思える瞬間が増えると思います。
ぜひ、合わせてご覧ください。
写真提供:髙橋こうたさん