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井上七海「Maybe so, maybe not」|緻密な線で描かれた絵画から考える、曖昧な判断の境界線

よしてる
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方眼紙のような見た目の作品を描く井上七海さん。線を引くことの反復のみでできた作品にはどんな意味が込められているのでしょうか。

今回は天王洲にあるKOTARO NUKAGAにて開催した井上七海さんの個展「Maybe so, maybe not」の模様をご紹介します。

要点だけ知りたい人へ

まずは要点をピックアップ!

要点
  • 井上七海さんは​1996年生まれ、愛知県出身のアーティストです。
  • 線を反復して描いた方眼紙のような《ヌフ》という作品を制作しています。
  • 「線を引く」という単一行為の反復によって「何かを描く」というイメージの呪縛から絵画を解放させることを試みています。
  • 今回の展示では、《ヌフ》シリーズと思考の源泉であるドローイング作品を展示しています。

本記事では展示作品のうち、6つの《ヌフ》シリーズと、3つのドローイング作品をご紹介します。それでは、観ていきましょう!

井上七海とは?

井上七海(いのうえ ななみ)さんは​1996年生まれ、愛知県出身のアーティストです。2019年に名古屋芸術大学美術学部美術学科洋画2​コースを卒業した後、2021年に京都芸術⼤学⼤学院修⼠課程 美術⼯芸領域油画分野を修了されています。

作品制作のコンセプトは、「ひたすらに線を引く行為を繰り返し、その反復した行動のなかで生じる線のズレや絵具溜まりなどの痕跡を残す」ことと話しています。

「線を引く」という単一行為の反復によって「何かを描く」というイメージの呪縛から絵画を解放させることを試みています。

方眼紙のような見た目の作品《スフ》

今回の展覧会でも展示されている代表作《スフ》は、線を引くことをひたすらに繰り返す、連続性と作業性の高い作品です。その見た目はまるで方眼紙のようです。サイズは大小さまざまで制作されていますが、一貫して線を引く行為に特化しています。

すべての作品の表情は変わらないように見えますが、ひとつとして同じ線の引き方をしているものはありません。例えば、液垂れのような跡や線の強弱のように、手で線を引くことで生まれる痕跡が作品ごとにあって、それが自動的に作品の表情を生み出しています。

大学時代のインタビューからも、現在の緻密な制作に至る背景が伝わってきます。

絵の構成を考えたとき、「抜け」ってあるじゃないですか、しっかり描く部分とあえてあまり描かない部分。私は、全部きっちり描きたいと思っていて、すごく苦戦しました。ただ、逆に考えてみると、全部に手を入れる、忍耐が必要な地味な仕事なんですけど、私にはそれができるなと。全部に手を入れる感じで描いてみよう。やってみたら自分の気持ちにしっくり来る絵が描けるようになりました。描きたいものがあってというよりも、自分ができること、自分の一番得意なことをやっていった、そんな感じですね。

名古屋芸術大学学生インタビューより引用

展示作品を鑑賞

《スフ》シリーズ

展示会場は大小2つの部屋に分かれていて、大きな展示室には井上さんの代表作《スフ》シリーズがメインで展示されていました。今回は展示作品の中から5つをピックアップしてご紹介します。

SUHU_11(plus)

《SUHU_11(plus)》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、1030 × 1456mm

会場に入って正面に飾られた作品です。遠目から見たら方眼紙の原版を展示していると勘違いしてしまうくらい、アート作品と気づかない人も多いのではないかと感じます。

近くで見ることでやっと手書きで直線を描いていることに気づき、そしてその気の遠くなるような作業に圧倒されます。まさに、全部きっちりと描きたいという意志が反映されていると感じる作品です。

SUHU_9(plus)

《SUHU_9(plus)》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、1030 × 1456mm

同じ大きさのパネルに、同じような線で描かれた作品です。先ほどの作品と比較してみて、違いなどわかるでしょうか。もちろん、線は人手で一本一本描かれているので異なる作品なのですが、ふたつをシャッフルして「どちらが《UHU_9(plus)》でどちらが《UHU_11(plus)》でしょう?」と言われたら、正直当てられる自信がありません。

ただ、作品について書かれた文章を読むと、その自信のなさも鑑賞したひとつの答えなのかなと思います。

絵画とは通常、背景から分離され知覚されるイメージである「図」とその背景となる「地」によって示されます。・・・何かを描く目的ではない線の反復は、ある意味で何も描いていない「地」を描いているとも言えます。つまり、井上は「何かが描かれているかもしれないが、何も描かれていないかもしれない」という状態を作り出すことでイメージを宙吊りにしているのです。

KOTARO NUKAGA展覧会詳細より引用

自分なりに言語化すると、何も描かれていない白紙を見ている感じでしょうか。コピー用紙の判別ができないのと似たような感覚になりました

ただ、人手で線を描いているという事実はあるため、ある意味で何も描かないで絵画を成立させるという状況に陥る作品の並びでした。

SUHU_8(plus)

《SUHU_8(plus)》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、1030 × 1456mm

こちらも先の作品たちと同サイズ、同様の線、だけど異なる作品です。ただ、この作品は他と区別ができる自信があると感じていました。それは、中央の線にできた、大きめの絵具溜まりです。

制作過程で故意につけたものなのか、それとも意図せずにできてしまったものなのかはわかりませんが、反復し線を引く過程で生じた絵具溜まりという「ズレ」のおかげで自信を持って特徴を掴むことができます。ただ、それで何を描いているのかと聞かれると、再び答えに自信を失うところに戻ってしまいます。

この「分かる」と「分からない」の繰り返しをする鑑賞体験はまるで人間の成長過程そのもののようです。そして、その気づきを促してくれる作品は、もしかしたら人間の白黒はっきりと区別できない、グレーな部分の感情を表しているのかもしれません。

SUHU_2(lsabela)

《SUHU_2(lsabela)》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、1456 × 2060mm

今回の展示作品の中で最も大きい作品です。1mm間隔で引かれた線も、ここまでの大型作品になると圧巻です。

ところで、作品タイトルとなっている《スフ(SUHU)》とはどういう意味なのでしょうか。

ここからは私の想像なので正確ではない点ご了承いただければと思いますが、スフと聞いてまず思い出したのは、美術用語の「スフマート」でした。

スフマートとは?

明暗を境界線なしにぼかすことで立体感を出す技法のこと。語源は煙を意味するイタリア語の「fumo(フーモ)」で、〈煙のかかった〉を意味します。有名な例だと、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ・リザ」にこのスフマートが用いられています。

《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像(通称モナ・リザ)》
レオナルド・ダ・ヴィンチ、1503-1506、ポプラ板に油彩、77.0 × 53.0cm、所蔵:ルーヴル美術館

スフマートを略して言っているのだとしたら、そこには「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」という認識の境界線を曖昧にする作品の世界観とリンクするのではと考えていました。

SUHU(log)_3

《SUHU(log)_3》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、515 × 364mm

今回展示している《スフ》シリーズの中では小ぶりの作品。線を薄くしている部分としっかりと描いている部分があり、遠目から観ると色味にグラデーションがでていることがわかります。

大小異なるサイズの作品であるものの、描かれている線は同様である点から、緻密な線を大小関係なく描き切っている凄みを感じます。

思考の源泉をたどるドローイング作品

小さな展示室には、作品制作に至る思考の源泉をたどることができるドローイング作品がメインで展示されていました。今回はその中から4つの作品をピックアップしてご紹介します。

A drawing of 60 cubes

《A drawing of 60 cubes》
井上七海、2019、Pancil,colored pencil and acrylic gouache on paper、360 × 460mm(Framed)

1mm方眼の上に蛇行した立方体が描かれたドローイング作品。方眼紙の一部が切り取られていて、その続きを手書きで付け足しています。方眼紙の線の延長線上に井上さんによる手描きの線が加えられ、その上を横断するように連続した立方体が描かれています。

機械的な線と手書きの線の上に描いた立方体を比較して、描いたものの表情に差が現れるのかを検証実験をしているように映りました。

ちなみに、立方体は数えるとちょうど60個あります。

A drawing of 50 cubes(1)

《A drawing of 50 cubes(1)》
井上七海、2019、Pancil,colored pencil and acrylic gouache on paper、460 × 360mm(Framed)

こちらは一度方眼紙に立方体を描いた後に真ん中で破き、無くなった部分に直線を書き足しています。《A drawing of 60 cubes》と異なるのは、人手で直線を描くタイミングなのではと思います。

他にもドローイング作品がありましたが、この2つの作品から、手書きの直線を描くタイミングによる直線の見え方が変化するのかを研究しているように見えました。

作品タイトルから元は50個の立方体が描かれていたと思いますが、こちらは見える範囲で40個の立方体が描かれていました。

SUHU(green_11)

《SUHU(green_11)》
井上七海、2022、Acrylic and gesso on cotton fabric over panel、364 × 515mm

スフの線が緑バージョンのものもこちらに展示していました。緑色のものは等角図と呼ばれる、斜めに線を入れた方眼紙と似ています

どちらかというと青色のスフよりも緑色のスフの方が絵具溜まりが多いようで、線を引くというよりは線を描いている印象を抱いた作品でした。

A drawing for the frontside and backside_2

《A drawing for the frontside and backside_2》
井上七海、2021、Embroidery thread on tracing paper、240 × 327mm(Framed)

トレーシングペーパーを生地にして刺しゅう糸を縫い、線の見え方を実験しているような作品。半透明の紙なので、表面の糸だけでなく、裏面の縫う過程も見ることができます。

このように、方眼紙や刺しゅう糸などの何かを生み出す脇役を線として捉えて、むしろ主役にしているようでした。また同時に、新たな価値を生み出すその線が何かを生み出すことを極力排除して、線たちにむしろ目線を向けるようにしているようでした。

普段は主役を支えている存在にも目を向けることの大切さに気づかせてくれます。

オンライン鑑賞も可能

遠方の方はオンラインでの鑑賞も可能となっています。

ただ、井上さんの緻密な作品、特に《スフ》シリーズの作品たちはオンラインビューイングでは細部までは捉えきれていませんでした。オンラインは雰囲気を知るために活用して、作品は実際に鑑賞しに足を運ぶのがおすすめです。

緻密な線に潜む人間らしい曖昧な判断の境界線

井上七海さんの作品を鑑賞してきました。端から端までしっかりと描き切る思考を感じる《スフ》シリーズは、緻密な線とたまにある絵具溜まりのズレに人間の白黒はっきりと区別できない、グレーな部分の感情を感じていました。

また、《スフ》シリーズに至る思考の源泉であるドローイング作品はあらゆる媒体の線を引用していて、いろんなシチュエーションで線がどんな表情を見せるか実験しているようでした。

こうした過程を経て線だけで描かれた作品は「何かを描く」という絵画のイメージをリセットしてくれると同時に、明確な答えを導き出せない判断の境界線を映し出してくれます。0と1では割り切れない部分をそのままにして楽しむ大切さを教えてくれているようでした。

今回ご紹介しきれなかった作品も展示されているので、展示会場やオンラインでも作品に触れて観てはいかがでしょうか。

展示会情報

展覧会名Maybe so, maybe not
会場KOTARO NUKAGA(天王洲)
東京都品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F
会期2022年3月5日(土)〜2022年4月16日(土)
開廊時間11:00 – 18:00
※日月祝休廊
サイトhttps://kotaronukaga.com/exhibition/maybe-so-maybe-not/
観覧料無料
作家情報井上七海さん|Instagram:@nnnoue

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ABOUT ME
よしてる
1993年生まれの会社員。東京を拠点に展覧会を巡りながら「アートの割り切れない楽しさ」をブログで探究してます。2021年から無理のない範囲でアート購入もスタート、コレクション数は25点ほど(2023年11月時点)。
アート数奇は月間1.2万PV(2023年10月時点)。
好きな動物はうずら。
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