文化の交差点・横浜がひらく多様なスタートライン|横浜美術館「おかえり、ヨコハマ」展レポート

多国籍の人が暮らす横浜は、海外との交流が盛んな「文化の交差点」です。
開港以来、横浜はたびたび歴史的な分岐点に立ち、様々な道を進みながら、変化と発展を重ねてきました。
そうした歴史上の転機に目を向け、アートを通して新たな発見につながった展覧会が、リニューアルオープンを記念した横浜美術館「おかえり、ヨコハマ」展です。
異文化との出会いから学ぶ視点や、自ら進む方向を決められることの価値に立ち返れる展示を、全8章・約220点の作品展示を通して多角的にレポートしながら紹介します。
横浜が歩んできた「交差点」の道のりを知ることで、アートの見方にも新たな視点が生まれるでしょう。
書き手:よしてる
1993年生まれの会社員。2021年2月からオウンドメディア「アート数奇」を運営。東京を拠点に「アートの割り切れない楽しさ」を言語化した展覧会レビューや美術家インタビュー、作品購入方法、飾り方に関する記事を200以上掲載。2021年に初めてアートを購入(2025年6月時点でコレクションは30点ほど)。

「おかえり、ヨコハマ」展とは

「おかえり、ヨコハマ」展とは、2025年のリニューアルオープンを記念した横浜美術館の企画展です。
国際港湾都市としての横浜の歴史をたどりながら、各時代を生きた人々の暮らしに焦点を当て、横浜がどのような場所だったのかを振り返る展示となっています。
全8章からなる展示には様々なテーマがありますが、ベースにあるのは「コンタクト・ゾーン」の考え方です。
ペリー来航をきっかけにした開港、終戦後の占領、グローバリズムにより170カ国籍の人々が暮らすようになった横浜市と、横浜は大きく3度の異文化との接触がありました。
そうした中、横浜で暮らす人々にどのような変化が起きていたのかを、横浜美術館のコレクションを中心に各所の作品や新作などを合わせた、約220点の作品を通して知れる展示となっています。
「思い思いに過ごせる美術館」に向けた新たなデザイン
企画展と共に見どころなのが、3年間の改修工事によってできた新たな空間づくりとデザインです。
例えば、横浜美術館を見渡すと「正方形、正円、正三角形」の形が各所に見られます。
この形が館内サインや什器のデザインに取り入れられ、美術館が来場者を迎える居場所として、より開かれた空間になっています。
館内に椅子が多いのも「思い思いに過ごせる美術館」の姿勢が表れているようです。


また、建築に使われている御影石(みかげいし)に由来するピンクを中心としたキーカラーも、美術館と一体的な空間を生み出しています。
そうした空間全体を意識したデザインが、多様な人を歓迎する場を生んでいるように思えます。
文化の交差点を巡る「おかえり、ヨコハマ」展を紹介
「コンタクト・ゾーン」の考えをベースにした「おかえり、ヨコハマ」展。
全体を通して見ると、ゆるやかに通底するテーマ「女性と子ども」「教育」があるように思えます。
今回はこの3つの言葉をキーワードにしながら、順路通りに文化の交差点を巡っていきます。
と、言いつつ「おかえり、ヨコハマ」展の入場口はエスカレーターと大階段の2通りに分かれています。
複数の入口がある珍しさを覚えつつ、まずは大階段の作品を観ながら、企画展示室に向かいましょう。
「作品」だから大階段に存在できるスロープ

無料エリアである大階段には、車椅子ユーザーの檜皮一彦(ひわ かずひこ)さんの作品展示がされています。
車椅子を用いた作品や映像作品がある中で、特に印象的なのが「スロープ」の存在です。

車椅子ユーザーやベビーカー利用者向けに配慮されたスロープに見えますが、このスロープは作品だから設置できている点が興味深いです。
というのも、建築の観点ではスロープを設置する場合にバリアフリー法を考慮する必要があるそうで、その決まりによると「スロープの勾配は1/12以下が基準」となっています。
例えば、段差が50cmだとすると、6mの長さを確保してスロープを設置する計算になります。
ところが、大階段上でこの条件を整えるのは幅や距離的に現実的ではありません。
背景を知ると、何気なく設置されたスロープは「美術作品」だから会期中設置できている側面があることが分かります。
こうした展示は、車椅子ユーザーのための法律が実生活空間では非現実的な要求になっていることを可視化する試みといえそうです。
そんな意味を感じるスロープを登って、企画展の入口を目指します。
第一のコンタクト・ゾーン:1859年の横浜開港期
土器や埴輪にみる縄文時代の暮らし

1章「みなとが、ひらく前」では、古墳、縄文、弥生時代の土器や埴輪が並びます。
文献ではなくモノとしての展示が、その時代から横浜に暮らしがあったことを思わせます。


(右)《弥生土器 甕 (都筑区大塚遺跡)》弥生時代中期、h30, φ22.5 cm
これらの土器と呼応するように、中島清之(なかじま きよし、1899-1989)《古代より(二)》が並びます。

東京国立博物館に展示されていたという土器や埴輪を描いた作品だそうで、土器の下には照明によるかすかな影が落ちています。
江戸時代の絵馬にみる「子どもへの願い」
土器から美術作品へと見る対象をスライドさせつつ、時代は江戸へ進みます。

多彩な画題を扱った絵馬には、庶民のさまざまな願いが描かれています。
中でも印象的な画題が、神や仏への祈りや感謝を伝えている「女性と子ども」を描いた絵馬。
子供が長く生きるのが難しかった時代に、安産や子供が健康に長く生きてほしい願いが描写されているようです。
ここから「女性と子ども」のテーマが緩やかにスタートしていきます。
ペリー来航からはじまる横浜一度目の「コンタクト・ゾーン」

2章「みなとを、ひらけ」では時代が一気に進み、ペリー来航へ進みます。

アメリカの東インド艦隊を率いたペリーが来航した翌年の1854年、幕府は横浜を舞台に日米和親条約を結びます。
その様子を描いた作品が、ペーター・ベルンハルト・ヴィルヘルム・ハイネ(伝)の《ペルリ提督横浜上陸の図》です。
黒船来航は出来事自体の衝撃だけでなく、艦隊の通訳を務めた中国人、船底清掃など危険な仕事に従事したアフリカ系の人など、世界には異なる民族・国家・人種がいて、それぞれに力関係があることを示された瞬間でもありました。
日米和親条約の4年後、1858年には日本にとって不平等な内容が含まれた日米修好通商条約が結ばれ、1859年に横浜を含む5つの港が開港します。
開港前後は、生麦事件などの外国人襲撃事件が発生し、庶民の反感が強まります。
特派員として派遣されていたイギリスの画家、チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832-1891)も襲撃にあったそうですが、彼は後に高橋由一、五姓田義松ら洋画家へ西洋絵画の手解きをする関係性が生まれます。

高橋由一(たかはし ゆいち、1828-1894)は「日本で最初の洋画家」といわれている画家です。
鮭の絵画を教科書で見て知っている人がいるかもしれません。
《愛宕山より品川沖を望む》で描かれているのは東京23区の最高峰である愛宕山からの眺め。
今では考えられませんが、標高25.7mからでも見晴らしがよかったことが伺えます。
街並みには白い西洋風の建物や新橋ー横浜を結ぶ日本初の蒸気機関車の煙があり、江戸から明治にかけた近代化する日本の姿を感じ取れます。
庶民の反感がある一方で、文化的な交流もあったことがわかる作品です。

(下)《横浜鈍宅之図》1861、歌川貞秀、多色木版, 大判三枚続、36.5 × 75 cm
1860-61年に出回った歌川貞秀の「横浜浮世絵」でも、反感とは別の視点が伺えます。
そこには、騒然の色が一切ない明るい顔の人々が描写されています。
現実には衝突が頻発していても、外国人の受け入れ港となった横浜は新たな経済が生まれ活気のある場所であり、そこでは異種混合の共存が生まれている、もしくは、現地民にはそうした振る舞いを求められていたのかもしれません。

また、意外だったのが、横浜開港とほぼ同時期に開かれたという港崎(みよさぎ)遊郭の存在です。
現・横浜スタジアム周辺に港崎遊郭があったようで、大きな異文化との出会いをきっかけに、外国人を受け入れる取り組みのひとつとしてできたのかもしれません。
ここで働く女性は「らしゃめん」と呼ばれました。
異文化との接触により衝突や相互作用が生まれているのが見て取れます。
「コンタクト・ゾーン」が生んだ3つの外国人向けの土産物
3章「ひらけた、みなと」では、開港から明治期にかけて生まれた日本の土産物を中心に紹介されています。
第一のコンタクト・ゾーンを経た横浜では、外国人向けの土産物や輸出品としての絵画や工芸品の制作が盛んになります。
一つ目が「写真」です。


外国人の記念撮影などの需要を見込み、1860年代初頭から横浜には写真館が開業しています。
その初期に活躍したというのが、イギリスの写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832-1909)や下岡蓮杖(しもおか れんじょう、1823-1914)です。
ベアトの手彩色を施した写真は「横浜写真」と呼ばれたり、下岡蓮杖は外国人向けの異国情緒を演出した風俗写真を撮影したりと、外国人を意識した作品が生まれています。
二つ目が「絵画」です。

五姓田芳柳(ごせだ ほうりゅう、1827-1892)は外国人向けの絵画「横浜絵」を制作しました。
武士が着た裃を身につけた外国人を描いた作品は、土産物として人気が高かったそうです。
三つ目が「陶磁器」です。


明治期の輸出品の花形である絹、茶にならんだのが陶磁器で、「横浜絵付け」と呼ばれる技巧が印象的です。
過剰にも見える装飾は、西洋のまなざしが意識された異常なものにも見えます。
外国人と共存する環境に生まれる需要は、技術発達や文化的な前進が少なからずあったのではと感じさせます。
「描く/描かれる」対象と教育の関係性
絵画で紹介した五姓田芳柳の次男は、襲撃を受けたチャールズ・ワーグマンが西洋絵画の手解きをした五姓田義松(ごせだ よしまつ、1855-1915)です。

義松の《五姓田一家ノ図》の画面左端にいるのが1歳下の妹、五姓田勇子(後の渡辺幽香)が描かれています。
渡辺幽香(わたなべ ゆうこう、1857-1942)は描き手の五姓田義松を見つめてスケッチをしている姿が描かれていますが、作品の中では「描かれる対象」となっています。

肖像画も、渡辺幽香を描かれる対象としていることが印象づけられます。
渡辺幽香は女性であることを理由に、兄の義松がワーグマンに教わったような「教育」が得られなかったそうです。
そのため兄の義松から洋画を学び、明治時代には女性洋画家の草分けの一人として活躍しました。

《幼児図》は渡辺幽香がシカゴ万博(1893年)に出品した作品。
モチーフとなっているのは豊臣秀吉に仕えた武将の福島正則(ふくしま まさのり)で、幼少期の怪力エピソードが元となっています。
明治維新を経て近代国家の仲間入りをした「強国日本」の存在を万国共通で親しみやすい赤ん坊を通して伝えていて、開港地・横浜の国際的な視点が反映されているようです。
教育が受けれない状況でも、家族と共にひたむきに絵画と向き合い続けたから、万博の舞台にたどり着けたのかもしれません。
開港後の横浜移住二世とその支援者「原三溪」の存在

4章「こわれた、みなと」では、異文化との交流を生きた次の世代、横浜移住二世の作品が並びます。
3章の横浜開港後の作品たちは異国を意識した土産物の色が強かったですが、横浜移住二世は美術としての絵画の色が強くなっていきます。

例えば、今村紫紅(いまむら しこう、1880-1916)の描いた伊達政宗は「金箔を貼った磔刑の柱で死の覚悟をする姿」で描かれ、人となりを中心に捉えた作品としての存在感を放っていました。
こうした横浜移住二世の活動の背景には、三溪園で知られる生糸貿易で財を成した実業家であり横浜の大コレクター、原三溪(はら さんけい、1868-1939)の強力なサポートがあったそうです。
原三溪は優れた古美術品を収集し、若い画家たちに学ぶ機会を提供していたそう。
文化的な教育の場を生み出す上でパトロン的な振る舞いは、次世代を担う画家にとって重要な時間であったことが想像できます。
清水登之(しみず とし、1887-1945)の《ヨコハマ・ナイト》はそうした時代の賑やかな風景が映し出されているようです。

関東大震災の発生とその記録
文化的な発展が見られた中、横浜は1923年の関東大震災で甚大な被害を受けます。
1章の展示にも作品があった中島清之の《関東大震災画巻》には、震災後の横浜の姿が描かれています。


生々しい記憶を一つの景色としてつなぎ合わせていて、被災直後の感情も素早いタッチで投影されているようです。
奥に浮かぶ船はおそらくイギリス海軍の艦船ホーキンス号と思われます。
関東大震災の際、ホーキンス号は横浜で救助活動にあたっていたそうで、当時の写真展示もされていました。

第二のコンタクト・ゾーン:1945年の第二次世界大戦後の占領期
震災復興から戦時下へ進む横浜で育つ子どもたち

5章「また、こわれたみなと」では、関東大震災後の復興と日中戦争下(1937-1945)の横浜が描かれます。
片岡珠子(かたおか たまこ、1905 – 2008)は北海道近代美術館で見た作品を描いた頃よりも若い、3,40代の頃の作品が展示されていました。

《緑蔭》は片岡球子が現・横浜市立大岡小学校に勤めていた頃の作品です。
モデルの児童には韓服を着た子どももいて、当時の横浜の多国籍さが見て取れます。
作品が描かれた時代は日本が朝鮮半島を占領していた時代で、日本に渡り働く朝鮮の人たちが多くいたそうです。
そうした背景がある中で、片岡球子の残した言葉「私は画家というよりもむしろ教育者です」には、時代や国籍に左右よらない、個性を大切にした健やかな成長への願いが込められているのかもしれません。

横浜市立大岡小学校の校長室に飾られているという《飼育》も展示されていました。
ダイナミックな構図と大胆な色使いは《面構》シリーズに通ずるものがありつつ、子どもひとりひとりの個性を全面に出そうとする教育者としての姿も垣間見れるようです。
松本竣介《Y市の橋》シリーズに映る戦時下の痕跡
その奥には、今回の展示の見どころである松本竣介(まつもと しゅんすけ、1912-1948)《Y市の橋》4点が並びます。

《Y市の橋》とは、横浜駅に程近い月見橋を描いたもの。
1941年に描かれた《横浜風景》(撮影不可)に描かれた月見橋には親柱の金属部分がありました。
しかし、1941年の金属類回収令で回収されたようで、以降の《Y市の橋》シリーズの親柱には土台のみが描かれています。
こうした時代の流れが、戦争で変容する街の姿を通して見て取れます。




定点観測的に描かれた4つの作品風景に注目すると、戦時中の1942, 43, 44年は当時の空気が残され、1945年の横浜大空襲後の1946年は街の無惨な姿が描かれています。
戦争が変えていく日常への怒りを込めて描かれているようにも思える作品です。
横浜のインフラを支えた艀と水上生活者への教育

(下)《横浜長嶋橋所見 (落陽)》1931 、石渡江逸、多色木版、23.9 × 36.3 cm
街から暮らしに視線を向けると、未整備の港への漂着が困難だった時代に、物資を運ぶために沖と陸を行き来する艀(はしけ)がインフラを支えている面影を作中に感じられます。
中には艀の船上で暮らす人もいて、陸とは生活リズムが異なることから子どもの教育環境が整っていなかったそうで、そうした背景から日本水上学校が創設されます。
港湾部の整備とコンテナ輸送の普及で艀が見られなくなった後も、学校は体制を変えて横浜の地に残っています。
外部支援により、子どもの教育が支えられていたことが伺えます。
横浜開港期の記憶がよみがえる戦後の横浜

6章「あぶない、みなと」では、終戦後の港や繁華街を含め、アメリカ占領軍に接収される横浜の姿が映し出されます。
終戦3日後の1945年8月18日、警視庁と内務省は進駐軍から一般女性を守るため、米国兵を迎える慰安施設の運営を開始します。

(右)《「屋内シリーズ」より 互楽荘 (ドア, 3-45号室)》1987[プリント:1992]、石内都、ゼラチン・シルバー・プリント、105.5 × 77 cm
例えば、石内都(いしうち みやこ、1947-)さんの《屋内》シリーズに映された互楽荘は、短期間でしたが慰安施設が設置された場所のひとつ。
慰安施設の求人は一般女性にしていたそうですが、国の危機を救う大義名分の下、守る/守られる立場が公に示されていました。
施設運営は1946年の公娼廃止指令発布で終わるものの、その役割は警察が慰安施設があることを黙認していた赤線や、非合法の青線などに引き継がれていきます。

(下)《待合室》1956[プリント:1988]、常盤とよ子、ゼラチン・シルバー・プリント、32.8 × 49.8 cm
そうした時代に赤線で働く女性たちを撮影したのが、常盤とよ子(ときわ とよこ、1928-2019)です。
赤線で働く女性に関係する撮影は、1958年に売春防止法が発布される直前まで続けたそうです。
また、アメリカ文化との接触により生まれた異様な存在としてのお六さん、ミナトのマリーなどの姿や、占領軍兵士と日本人女性との間にできた子どもの世間的な冷遇と保護の歴史に関する作品も展示されていました(撮影不可)。
「女性と子ども」のテーマに沿って考えると2章の港崎遊郭ができた経緯と似た要素があり、同じ横浜で約100年の時を超えて繰り返す歴史が映し出されているようです。
アメリカ文化との接触から生まれた「ポップアート」

また、横浜開港と似た側面として、篠原有司男(しのはら うしお、1932-)さんの作品が戦後日本へ一気に流れこんだアメリカ文化の影響でポップアートが生まれたことを映し出してるのも印象的でした。
「Drink More」とコーラを差し出す手にも、一方的な押し付けに見えつつそれを受け取る時代性が反映されているように見えます。
第三のコンタクト・ゾーン:1990年以降のグローバリズムの波
丹下健三設計で昭和最後の年に竣工した「横浜美術館」

7章「美術館が、ひらく」では、高度経済成長期を経て好景気となった時代。
そんな時期の昭和最後の年に竣工したのが横浜美術館です。
横浜美術館は「建築界のノーベル賞」とも称されるプリツカー賞を日本人で初めて受賞した丹下健三(たんげ けんぞう、1913-2005)設計で、1989年の横浜博覧会(YES’89)にあわせて開館します。
「美術館が広場のように人々が自由に使いこなす場所となるように」の考えに基づき、入口近くのグランドギャラリーなど目的を定めないスペースが広く取られているのが特徴的です。
こうした思想は、リニューアル後も継続して反映されています。

横浜美術館のこれまでの歩みを紹介するように、横浜博覧会で展示されたコレクションや、「ヨコハマトリエンナーレ2011」で発表された横尾忠則(よこお ただのり、1936-)さんの作品も展示されていました。

《黒いY字路》シリーズは「見えているもの」を闇のなかに消滅させることに挑んだという作品で、中央には西側から見た横浜美術館に見える建物が描かれています。
こうした横浜美術館が展示してきた作品をはじめ、見る人によっては懐かしい作品も並んでいるようです。
その先には、開館前後に購入されたセザンヌ、ピカソ、マグリットなどの作品が並びます。
「描くもの/描かれるもの」の間にある多様な関係性
3章の渡辺幽香にあった見る/見られる関係性を緩やかに引き継ぎつつ、いくつかの作品をもとに「描くもの/描かれるものの関係性」を考察する展示が広がっていました。
ここでは、7つの関係性をみていきます。
一つ目は「画家と生涯のパートナーの関係性」です。

(右)《縞模様の服を着たセザンヌ夫人》1883–85、ポール・セザンヌ、油彩, カンヴァス、56.8 × 47 cm

後のキュビズムへ影響を与えたポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839-1906)の《縞模様の服を着たセザンヌ夫人》。
夫人のオルタンス・フィケの肖像に関する解説文には「自画像に匹敵する27枚のオルタンスの肖像を描いた」と書かれています。
それほど重要な存在だったであろうオルタンスをあえてぎこちない表情で描いたのは、セザンヌの幾何学的な見方が影響しているためで、実際には良好な関係性だったのではと思わせます。

その左隣にあるのが、先に紹介した高橋由ーや五姓田義松らが西洋絵画の手ほどきをした、チャールズ・ワーグマンの《座る婦人》です。
こちらも生涯のパートナーであった夫人の小沢カネをモデルに描いたとされています。
質素な室内に対して小沢カネの頬を赤く染めた表情が存在を際立つ描写がされています。
似た三角形の構図である2作品は、19世紀末を生きた画家がパートナーを描いた点で共通していて、波乱の時代の中で夫婦良好な関係性を築いていた様子が伺えます。
二つ目は「アーティスト同士の関係性」です。

(中)《メレット・オッペンハイムとルイ・マルクーシ》1933、マン・レイ、ゼラチン・シルバー・プリント、37.4 × 27.5 cm
(右)《メレット・オッペンハイム》1933、マン・レイ、ゼラチン・シルバー・プリント、37.7 × 25.4 cm
マン・レイ(Man Ray、1890-1976)による作品。
モデルとなっているメレット・オッペンハイムが制作に協力する姿が印象に残りますが、作中にいる男女は両方ともアーティストです。

マン・レイの作品の前に展示されたメレット・オッペンハイムの《リス》を見ると、シュルレアリスム運動に参加したアーティストでもあることを意識させます。
三つ目は「アーティストと雇用者の関係性」です。

ブラッサイの《アンリ・マティスとそのモデル》は、雇用主のマティス(右)雇用者のリディア・デレクトルスカヤ(左)の関係性とは思えない距離感が写されています。
家事全般を担当する役割から、生活と制作を支えるようになっていくリディアとの距離感の近さは、モデル以上の存在であることを映し出しているようです。
四つ目は「アーティストと恋多きパートナーの関係性」です。

《ガラの測地学的肖像》(1936)のモデル、ガラ(本名:エレナ・イバノブナ・ディアコノワ)はサルバドール・ダリ(Salvador Dalí、1904-1989)の結婚相手ですが、その前は愛人の画家、マックス・エルンストがいました。
少し離れた位置にマックス・エルンストの作品が展示されているところにも意味を感じてしまいます。
ガラは恋多き女性で、ダリとの結婚後も不倫をしていました。
それでもダリにとっては創造の源泉であり、マネージャーでもある存在で、ダリが「わたしの絵は、ガラよ、ほとんどあなたの血で描いたものだ」と述べるほど深い愛があったようです。
五つ目は「アーティストと生徒の関係性」です。

「抽象絵画の父」とも呼ばれるヴァシリィ・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866-1944)が芸術学校の講師だった頃に出会ったガブリエーレ・ミュンター(Gabriele Münter, 1877-1962)と1902年から1914年まで行動を共にしたそうです。
ミュンターは、ナチス政権の前衛芸術弾圧の災難からカンディンスキーの作品の多くを守り抜いた人物としても知られています。
そうした二人の作品が横並びに展示されていました。

双方向で影響し合い、抽象絵画を世に広めていった様子が見て取れます。
六つ目は「アーティストと28歳差の恋人の関係性」です。

(右)《ひじかけ椅子で眠る女》1927、パブロ・ピカソ、油彩, カンヴァス、92 × 73 cm
パブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881-1973)の2点は歳の差にも程があると言いたくなる28歳差の恋人、マリ=テレーズ・ワルテルを描いたと考えられる作品が並びます。

《ひじかけ椅子で眠る女》はワルテルと出会った年に描かれた作品です。

《女の肖像 (マリ=テレーズ・ワルテル)》は10年後に描かれた作品で、当時はすでに次の恋人、ドラ・マールがいる中で、解説には「ピカソはワルテルの曲げた右腕の隙間に、キスするかのような自分の横顔を描き込んでいます」とあります。
恋多きピカソにも、心残りがあるのかもしれません。
七つ目は「アーティストと同性パートナーの関係性」です。

ピカソの作品を見て画家を目指したという、フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1561-1626)の《座像》が、7章の最後にどっしりと待ち構えています。
モデルは彼の恋人、ピーター・レイシーだと考えられていて、同性愛者としての愛の形にも、作品を通して触れられています。
「描く/描かれる関係性」を見ていくと、歴史的な背景から女性が描かれる側であることが多かった点はありつつも、中には立場を超えた多様な関係性の在り方があることに気づきます。
どの時代、どの国のアーティストにおいても、近しい存在が互いに影響し合い、作品を形成していく関係の重要性が示されているようです。
これからの「コンタクト・ゾーン」に身を置く時に、多様な関係性の在り方への理解や尊重が大切になってくることを語りかけているようでもあります。
多様な関係性の理解と美術館の教育活動の取り組み

8章「いよいよ、みなとがひらく」では、展覧会全体を通じて流れる「子ども」のテーマが全面に出た展示室からスタートします。
満足に教育を受けられなかった時代や環境があった事実を背景に、美術館が教育を提供することで将来の選択肢を増やすことや、多様な関係性の理解にもつなげているようです。

展示作品は子ども目線に合わせて低く設置されていたり、机の上や円形のキャプションにはなぞなぞのような仕掛けで作品を知るための接点が用意されています。
子どものまなざしの先にある作品たちは、シュルレアリスムで知られる画家を中心とした横浜美術館らしい色のあるコレクションです。


ルネ・マグリット(René François Ghislain Magritte, 1898-1967)は本来あるべきものが違うものに置き換えることで、神秘的な雰囲気が醸し出される作品が印象的です。
題名や描かれているものの意味に注目させるキャプションも特徴的です。

マックス・エルンスト(Max Ernst, 1891-1976)の《子供のミネルヴァ》は、絵の具の間の底に穴を開けて、振り子のように揺らしてできた線の偶然性から像を浮かび上がらせる「子どもの遊び」と呼ぶ技法で描かれています。

キャンバスにゆるく溶いた油絵の具を置き、紙を押し付けて剥がしてできる模様を作るデカマルコニー技法で描いた《少女が見た湖の夢》も、子どもの頃の遊びを思わす要素があります。
作中には生き物が隠れていて、それを探すのも面白いです。

ジョアン・ミロ(Joan Miró、1893-1983)の《花と蝶》は、ここまで見てきたシュルレアリスムに関わる作品へ作風を移行していく時期に描かれたもの。
アーティストの生きた時間軸によって作風が変化することも知れるようになっています。

人間の欲望や行為のおろかさを諷刺した、桂ゆき(かつら ゆき、1913-1991)の《はだかの王様》(1969)はマグリット《王様の美術館》の対面に配置されていて、異なる王様とされるモチーフを見比べられるようにもなっていました。

マリア・ファーラ(Maria Farrar、1988-)さんの《ルームサービス》(2021)は、故郷を離れ異国の地で客室係の仕事をしていた母に着想を得て、働く外国人労働者の姿を描いたそうです。
シュルレアリスムから時代が進んだ絵画との対比はもちろん、日本とロンドンで暮らした経験のあるファーラならではの文化折衷が生む表現も、今回の展示テーマと重なる要素があります。
鑑賞を通して自分の言葉を見つけ、それを身近な人と交換することで多様な関係性が生まれていきそうな空間となっていました。
そして、美術教育へとつながっていきます。
1967年に画家の小林昭夫(こばやし あきお、1929-2000)を中心に、学外で現代アートの基礎を多角的に学ぶ「Bゼミ」がスタートします。


Bゼミでは講師と学生が討議し、実験的な創作を行う演習方式がとられました。
記録の中にはもの派を代表する李禹煥や関根伸夫による貴重なゼミの記録も見ることができます。
課外だからこそできた現代社会への批評性を持った新しいアートを学ぶ場は、学生に幅広い選択の可能性を与えたように想像できます。
家庭環境が子どもに与える「選択の自由/不自由」
美術館や学校、課外活動を通した教育は多様な人とのつながりから学びを得られる一方で、子どもにとって家庭環境もまた重要な要素ではないかと思います。
そうした、家庭環境と密接に関わる作品を制作する2人のアーティストを見ていきます。

去る2月23日にご逝去された、折本立身(おりもと たつみ、1946-2025)の作品。
折本立身は国際的に活動したパフォーマンスアーティストで、今回展示していた頭部にいくつものフランスパンを括りつけて街中を練り歩く《パン人間》や、アルツハイマー廟を患った母親の介護をする中で生まれた《アート・ママ》は代表作として知られています。

介護生活をしながら作品発表を続ける親子の距離感には信頼関係が表れているようで、母親は息子に身を委ねているように見えます。
介護生活という一般的にはマイナスに受け取られる要素でも、親子の深いつながりは途絶えていないからこそ、表現が生み出されているのかもしれません。
松田修(まつだ おさむ、1979-)さんの《奴隷の椅子》は、兵庫県尼崎の青線(非合法の買売春を行う地帯)近くに生まれ育ち、スナックを営んでいた母親の言葉をもとにした作品。

椅子は母親のスナックで実際に使われていた椅子で、これを「奴隷の椅子」と名づけています。
また、ピンク色の壁紙もまた、母親が選んだものを使っています。(当初予定していた壁紙が使えず他の壁紙を選んだものの、地味なものばかりだったために「日本に元気がないのがわった」と話したそうです)
印象的なのが、映像の中で母親が「もうちょっと賢ければ飛行機の客室乗組員になりたかったんです。なりかたもわかりませんが。」と話しているシーン。
他にも、母親にもかつて娘だった時期があったけれど、家庭環境などで夢を選ぶ選択肢がなかった趣旨の発言も印象的です。
スナックの椅子が母親の夢を奪ったという意味で「奴隷」と名付けているのかもしれません。
母親と子どもをテーマにした作品を通して感じるのは、家庭環境が子どもに与える影響は大きいということ。
特に「自分で選ぶ」スタートラインが目の前にあるかは家庭環境に依存する要素が大きいことが、作品を通して身に沁みました。
視点は横浜から各地、大勢から個人へ
ここまで横浜を舞台に歴史を追いながら「コンタクト・ゾーン」「女性と子ども」「教育」をテーマに作品を見ていきました。
最後は横浜から別の地域へ目を向けさせるような作品が並びます。
例えば、ジュン・グエン=ハツシバ(Jun Nguyen-hatsushiba、1968- )の《呼吸は自由 12,756.3:日本、希望と再生、1,789km》は、壁に貼られた地図上に桜を模した映像を投影しています。

2007年に始まった映像プロジェクトの一つで、ホーチミンと横浜で200人以上の人々が走ったルートが、壁に貼られた地形図の上に桜を描いています。
そこには、東日本大震災の被災地復興の祈りが込めています。

視点は横浜から各地へと向けられつつ、石川竜一(いしかわ りゅういち、1984-)さんの《portraits 2013-2016》シリーズへ繋げられることで、大人から青年へ、大勢から個人へと向けられます。

「子ども」が自らなりたいものになるために
8章「いよいよ、みなとがひらく」の展示室は、言われないと気づけないくらい自然に、徐々に照明が暗くなっています。
そうした照明演出を抜けた最後の展示エリアに足を踏み入れた途端に、目の前が一気に明るくなると同時に、奈良美智(なら よしとも、1959-)さんの《春少女》がそっと見つめてきます。


大きな少女を目の前に小さな椅子で見ると、周囲の景色が大きく見えると同時に目の前の少女も大きく感じ、自身が小さかった頃の感覚を呼び起こすような感覚になります。
そうした時間を共有していると、子どもや大人の中にいる小さな子どもにも「自分で選べる可能性」があることに気づき、行動する勇気を与えてくれます。
子どもが自らなりたいものになるためには、目の前に選択肢があり、そこ向かうためのチャンスと時間が必要です。
それは、大人も一緒ではないかと思います。
展示で多くの選択肢を観て、自らの中にいる無邪気な子どもに気づいた今だからこそ、今抱いた気持ちを偽ることなく行動する勇気を与えてくれる空間になっていました。

まとめ
歴史や自分自身に対しても、不可視化されてきた存在に目を向けることで新たな発見につながる企画展でした。
また、横浜の歴史を追いながら見た作品の中でも印象に残った数々の作品に共通して感じたのは「真剣勝負をしている」感覚でした。
たとえ理想的な環境に身を置けなかったとしても、それを乗り越える真剣さは感覚的ではありますが、時代を超えて残っていると思います。
今回の展示作品も、残るべくして保管されてきた作品ばかりです。
美術館の企画展ではそうした作品と出会えるチャンスが広がっています。
ぜひ、今回紹介した視点も参考に、美術館へ足を運んでみてください。
展覧会情報

展覧会名 | 横浜美術館リニューアルオープン記念展「おかえり、ヨコハマ」 |
会期 | 2025年2月8日(土) – 6月2日(月) |
開廊時間 | 10:00 – 17:00(入館は閉館の30分前まで) |
定休日 | 木(3月20日[木・祝]は開館)、3月21日(金) |
サイト | https://yokohama.art.museum/exhibition/202502_welcome_back_yokohama/ |
観覧料 | 一般:1,800円 大学生:1,500円 高校・中学生:900円 小学生以下:無料 |
会場 | 横浜美術館(Instagram:@yokohama_museum_of_art ) 〒220-0012 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1 |